秀吉の奥州仕置きと葛西滅亡

 天正17年(1589)小田原に在った豊臣秀吉は全国の諸大名に参陣を命じました。直ちに参陣した津軽、南部、相馬、伊達等は所領を安堵されましたが、参陣に遅れた、又はしなかった葛西、和賀、稗貫の諸氏は攻撃を受けて領地を没収されます。奥州仕置きは天正十八年六月、蒲生氏郷と木村弥一右衛門の二万の軍によって決戦となり、葛西十七代の晴信は敗れて、家臣の千葉氏も滅びました。

 葛西の領地は木村吉晴の領地となり三百人の城館持武士は土着農になるか、離散して、地頭政治が終わりました。群小地頭は追放され、帰農の地侍は、成り上がりの木村家臣の圧力に抗して一揆を起こします。天正十八年十月十六日のことです。翌十九年二月非政の木村伊勢守は罷免されて領地召し上げ所替えとなりました。当地方は伊達政宗の治領となります。

 

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更新履歴 新規作成:Apr.1,2004
最終更新日:Mar.29,2006
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