平安時代から平泉誕生

 延暦8年衣川戦は朝廷軍の大敗に終わり、14年後の延暦22年には坂上田村麻呂が胆沢に農業栽培試験場をかねた胆沢城を造るに及び、漸く地元民との交流が可能となりました。兵士とその家族のうち 「希ふ者を永く柵の戸に置く」 と共に諸国から4千人の農民を移住させ屯田兵とし、開拓と農耕に当たらせました。

 北上川沿岸、磐井川、久保川、金流川、砂鉄川、千厩川、黄海川等の下流沿岸の適地が拓かれて逐年面積は増加しました。

 磐井の地名の出典は、承平年間(938)に源順の書いた 「和名類じゅう抄」 が初見で 「伊波井」 とありまして、伊波井郡に7郷あり 「マスザワ イハイ ヤマダ ナカムラ ハセツカベ アマルベ」 となっています。このうち当事業地区は、磐井郷(一関、山目、中里、平泉、真滝)と山田郷(狐禅寺 舞川 長部 田河津 母体)と仲村郷(流 栗原 石越)に包含されます。

 仲村郷は永承6年(1051) 「前9年の役」 の記録 「陸奥話記」 に出てきます。一関市萩荘の小松柵の戦いの項に「磐井郡仲村の地に入る。陣を去ること四十余里。耕作の田畑と民戸はすこぶるゆたかなり。即ち兵士三千余名を遣わし、稲禾等を刈るを令し軍量に給せんとす。」とあります。

 永保3年(1083)清原一族の内紛により 「後三年の役」 が起き、寛治元年(1087)清原勢力に替わって藤原清衝が陸奥六郡を支配し約百年の平泉盛栄となりました。

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更新履歴 新規作成:Apr.1,2004
最終更新日:Mar.29,2006
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