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 第三節 旧蹟(附名所)

一、鬼死骸石
  鹿嶋神社下、今水田中ニアル大石ニシテ、俗ニ之レヲ鬼石ト称ス。
  其ノ南方約一町余、牧澤水田中ニアルモノヲ「あばら石」ト云フ。共ニ花崗岩ナリ。
  安永風土記ニ曰ク、
   鬼死骸、モト鬼石ノ井ニ作ル。延暦二十年、田村将軍大武丸ノ余党ヲ誅シテ之ヲ埋メ石ヲ其ノ上ニ置ク。
   鬼石高五尺周一丈余、鬼死骸石(あばら石)高一尺周一丈余云々。
  封内風土記ニ
   鬼石在鹿島社下田中、高六尺許囲三丈許、云埋大武丸之屍處、アバラ
*注一石隔鬼死一町許在田中長六尺許廣四尺許平石也
   編者之レヲ実測セシニ、其ノ大イサ左ノ如シ。
    鬼石   □□□
    アバラ石 □□□
一、省耕亭趾
  字三関ニ在リ機織山ニアルヲ、南茶亭城山ノ水雲亭ヲ西ノ茶亭ト号シ、当省耕亭ヲ東ノ茶亭ト称セリ。
  元藩ノ士臣今宮氏ノ別荘タリシガ、後、藩主ニ献ジタルモノ。明和年中ニ至リテ荒廃ス。後、地主町金森氏商人ナレトモ官ニ功労アリタル故ヲ以テ、下屋敷ト号シ藩主ヨリ附与セラレタリ。
一、豊後塚遠遊所  在狐禅寺
  徳源公ト翁親シミ深ク、ト翁普賢沢ニ入リ業ヲ修ムルニ当リ、公屡々之レノ不動尊ニ詣デ玉フ。
  以後、遠馬ヲ試ミ玉フ毎ニ、休ミ所トナシ、歴代其ノ例ニ據ル。
  俗ニ豊後塚ノ御茶屋ト唱ヒ、四方ヲ観望シ得ベク遠望絶桂ナリ。
  当時丈余ノ大松二本アリシト、今枯倒シテ其ノ根ヲ留ムルノミ。
一、高橋  在真柴
  今、瑞川寺公葬地南方旧国道ニ架センモノナリト云フ。
  封内風土記ニ
   古昔、有橋、町八間横三間高サ一丈五尺余。板橋而号之高橋、東山帝宝永中埋其澤為平地、今無、其橋検断役蜂谷寿保御用留帳ニ
   一、高橋 但板橋
     宝永五年十月築工事ニ成、長八間 高弐拾壱丈八尺、云々
一、橋田原御仕置場  在真柴
  田村藩ノ御仕置場ニシテ、天和三年、此ノ地ニ指定セラレ、罪人ノ打首磔付其ノ他重罪ニ所シタル所ナリ。
  今ハ国道改修セラレテ、其ノ一部ノ地ヲ存スルノミ。傍ラニ石地蔵(俗ニ首切リ地蔵)建立セラレ在リタリシガ、明治□□年、瑞川寺境内ニ還サル。
一、境瀧  在狐禅寺ト滝澤トノ境
  滝澤川(思川)ノ下流滝澤ト狐禅寺ノ境ニアルモノニテ、両岸絶景ノ如ク高ク奇岩怪石突起出入ス。
  封内風土記ニ
   号境瀑布高一丈五尺余濶七間余ト掲載セラレタリ。


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注1:骨扁に旁は害 害 とあります。
          骨
注2:元号と西暦の対応
延暦:元年(七八三年九月一九日)〜二五年(八〇六年五月一七日)桓武天皇
天和:元年(一六八一年九月二九日)〜四年(一六八四年二月二〇日)霊元天皇
宝永:元年(一七〇四年三月一三日)〜八年(一七一一年四月二四日)東山天皇 中御門天皇
明和:元年(一七六四年六月二日)〜九年(一七七二年十一月十五日)後桜町天皇 後桃園天皇
底本:「復刻 眞瀧村誌」
 2003(平成15)年6月10日発行
発行者 眞瀧村誌復刻刊行委員会
代表 蜂谷艸平
2004年3月10日作成